鏡のない世界  その世界は鏡のない世界でした。  だから、その世界の住人達は自分を見ることが出来ません。  でも他人の顔ならいくらでも見ることが出来ます。 「あの人ヘンな顔してるね。目が寄っちゃっててさ。」 「あの娘かわいくないわね。わたしの方がずっとずっとかわいいにきまってるわ!」 「あんな顔でよく外を歩けるもんだ。」  ちょっとした路地裏に入れば、朝から晩までそんな話で持ち切りです。  鏡のない世界の住人達は、他人の話が大好きでした。  その世界の町はずれに、一人の変わり者の男が住んでいました。  その男はまるで好奇心の固まりのようでした。  得体の知れないものがあれば、一日中いじりっぱなし。  そして何やらわけの分からない機械を作っては町のみんなに売り出していました。  その日、男はその世界にたった一つの湖を眺めていました。 「何かおもしろいものはないかなぁ…町には面白いものがなくなっちゃった。」  そう、町に彼の興味を引くものは無くなってしまったのです。  そこで男は遙々遠出をしてこの湖までやってきました。  溶けた銀を流し込んだようなその湖は、すべてを飲み込んでしまうかのように輝いています。  ぼうっと湖を眺めていた男の目に一人の男が映りました。  男もまた湖の中から男をぼうっと見ていました。 「あれ、こんなところに人がいる!湖の中で苦しくないのかな?」  男は「湖の中の男」を助けようと、右手を湖に差し出します。  それと同時に、湖の中の男はその右手を男に向かって差し出します。  男がその手をつかもうとした瞬間、男の手はすうっとすり抜けてしまいました。  何度やっても同じ。  男はやがて疲れて、その手を引っ込めました。  するとどうでしょう。湖の中の男もその手を引っ込めたではありませんか。  全く同じ動きで。  男はもう一度、右手を差し出してみます。  湖の中の男もまた、右手を差し出します。  男は考えました。  日が暮れ、夜になり、日が昇り、そしてまた日が暮れかけた頃。  男は一つのことに気がつきました。 「どうやらそこにいるのは僕自身らしいぞ。」  男はその水面に自分の姿が映ることに気がつきました。  それから男はいろいろなことを研究しました。  毎日毎日、足繁く湖に通いました。  何年もの研究の後、男はようやく湖を削りだして「鏡」というものを作り出すことに成功しました。 「やった!ついに完成したぞ。」  でも、それには湖の表面とは違い、大きな欠陥がありました。  それに映ったものは、左右が逆になってしまうのです。  右手を挙げれば左手が。  右目をつぶれば左目をつぶってしまうのです。  男は「鏡」に改良に改良を加えましたが、そのことだけはついに直すことが出来ませんでした。 「しかたがない。これを製品として発売しよう!みんなの喜ぶ顔が目に浮かぶぞ。」  男はそれを街で売りだしました。  住人達は、自らの姿が見られるその不思議な「鏡」というものをこぞって買い求めました。  ……そして、人々は初めて自分の姿を目の当たりにしました。 「……こんなのは私じゃない!」 「僕がこんな顔をしてるはずがない!」  住人達はそこに移ったものに愕然とし、そして拒絶しました。 「この鏡はニセモノだ!」 「そうだ!私が右手を挙げても、こいつは逆の手を挙げているじゃないか!」 「あの男が私達を陥れようとしているんだ!」  住人達は口々にそう叫びました。  そして、その鏡を高々と掲げ、一斉に地面に叩き付けました。  湖の、澄んだ、きれいな悲鳴が世界中にこだまします。  男はその世界を追放されてしまいました。  鏡のない世界は、再び、鏡のない世界になりました。