「あのころ」(題指定「ヒメ」:555HIT記念キリ番小説第3弾)  私は強い日差しに目を覚ました。 (ああ、もう朝か。)  だが、朝と言うにはもう、いささか日は昇りすぎている。  高く澄んだ空に浮かぶ、秋の穏やかなはずの太陽は、まるで真夏のように私を照らしている。  私はそのまま目一杯、体を伸ばした。  固い木の「ベッド」に痛めつけられた体のあちこちが乾いた悲鳴を上げる。  ようやく目が覚めたという実感が得られた私は、そのまま頭を掻きながらベッドに座った。 もはや、いつ洗ったのか思い出せないその頭からはフケともシラミともつかぬものがバラバラと落ちてくる。 別段驚くことも戸惑うこともない日常の中、私は大きく欠伸をかく。 厳しい太陽とは裏腹な優しい風が私の周りを駆け抜ける。  しばらくそのままにしながら、私は目を閉じ秋のさわやかな風にしばし身を委ねてみる。    (風の匂いが変わった。)  その日差しに秋を実感できなかった私は、それでようやく季節を思うことができた気がした。  だが私はそんな気分の他に違うなにかを感じた。  首を上げ「我が家」を見渡せば、そこには子連れの母親どものくだらない縄張り意識とプライドがあった。  それらは奇異と侮蔑と憎悪の入り混った視線を私に投げかけてくる。  ふんと鼻を鳴らし、その視線を避けるでもなく構うでもなく、私は再び固いベッドに横たわった。  そう、人は私のこの愛用のベッドを「ベンチ」と呼び、私の家を「公園」と呼び、そして私自身のことを「浮浪者」と呼ぶ。  私は社会に不適合と烙印を押されたモノなのだ。  ゴミを漁ってその日を暮らし、夜露も凌げないこの公園で眠る。  それが私だ。  それ以上でも、以下でもない。 (ふん、くだらない。)  「何が」と言う明瞭なものなどありはしない。  ただ漠然と何かが、そして全てがくだらないのだ。そうして私は日々を生きている。 ……そこまで思い、私は心の中で少し自嘲した。  そんな哲学めいた考えが一番くだらないことに気がついたからだ。  誰にも気づかれぬよう小さく笑いながら、私は哲学よりも自分の腹の虫が気になり、今日の食事を探しに行くことにした。  再び伸びをしながら、緩慢な動作でベンチから起きあがり……。  その時だった。  遠くからピンク色をした小さなボールが勢い良く弾みながら、足下に転がってきたのだ。  そして、私の足にぶつかりその場で止まる。 (何だ……ボール遊びか。)  多少なりとも機嫌の良かった私はボールを投げ帰してやろうと思い、反射的に手を伸ばした。  こんな事は滅多にない、いや、私がこの暮らしを始めてから初めてのことだろう。 しかし。  しかし私の手は空を切る。  そこにはボールを投げた少女の母親が息を切らしながら私を睨んでいた。  ……時が止まったような時間が過ぎ、女はボールをそのエプロンですり切れるほど丹念にこすりながら、何事もなかったかのように輪の中へ戻っていった。  ふんと私は鼻を鳴らす。  気勢をそがれた私は再びその固いベッドで眠りにつくことにした。 ◆  ……それからどれくらいの時が過ぎたのだろうか。  私は夢を見ていた。  夕暮れ間近の広い公園。  「あのころ」の夢だ。  もう何十年昔のことになるのだろう。  そこには束縛も嫉妬も侮蔑もなかった。  あるのはボールと好奇心と幼なじみ。  思うがままに日々を過ごし、発見と、冒険と、危険に満ちあふれた世界。  そしてそこには。  今とは違う、私がいた。 ◆  ……ロシ……。おい、ヒロシ!  私は自分の名を呼ぶ声と体を揺さぶられる感触にまどろみから引き戻された。 「おいヒロシ! 何こんなトコで寝てんだよ。早くこねーとオマエ抜きで始めちまうぞ。」    この声は……?  私は聞き覚えのあるその声に飛び起きた。  驚きながら目を丸くする泥んこの少年。  しかしすぐに、彼はニカッと屈託のない笑顔を浮かべる。 (ケンジ……。)  思い出した。  彼はケンジだ。  私の幼なじみでケンカなじみ。  ……たしか、小学校の頃東京に引っ越していったはずだ。 「ほら! 何、し、て、ん、だ、よっ!」   ケンジはその小さな手で私の汚れた手を引き、ボロをまとった背中を押す。 (私は一体どうしたというのだ?) 「みんな待ってんだぞ!」  そういって少年が指さす向こうには見覚えのある少年達が、瞳を輝かせながら私を待っている。  ああ、私は未だ夢の中にいるのか。  私は呆然としながら自分の手を、体を、そして辺りを冷静に見回す。  何も変わっていない。私は何も変わっていない。汚れた手、汚れた体、汚れた髪、現実の私と何ら変わるところはない。  だが、だが辺りが違った。  手入れの行き届いていない公園、そこを歩き回るノラ猫、灰色のスモッグがかった空、そして「生」を実感させる少年達。  全てが、あのころだった。 「ほら、早く来いよ。」  鼻を擦って無邪気に笑いながら、ケンジは私に向かってその小さな手をさしのべてくる。  その手を取ろうとする私の手は震えていたに違いない。  彼に何かを話そうとする私の唇は震えていたに違いない。  ケンジの少し困惑した顔からして、私は泣いていたに違いない。  これが果たして夢なのか何なのか。そんなことはもはやどうでもよかった。  そこにあるのはボールと好奇心。そして泥だらけの幼なじみ。  私は幼き友人の手を取り、彼と共に輪の中へ駆けだした。  ……その時の私の顔は、あのころの私だったに、違いない。